Le Tombeau de Couperin - prélude / クープランの墓-プレリュード

 フランスの作曲家ラヴェルによる作品のカヴァー。原曲は、ラヴェル自身が従軍した第一次世界大戦の頃に、6曲からなるピアノのための組曲として書かれ、各曲が戦死した友人たちに捧げられていることから「墓」というコンテストが生じるが、「墓」を意味する « tombeau » には、「偉人への敬意」といった意味合いもある事から、クープランを代表とするフランス音楽へのオマージュとしてこの作品が書かれたらしい。
 作曲者本人のアレンジによるオーケストラ版がある。
 C'est le cover version par igrec musique, de l’œuvre de M. Ravel, compositeur de la France. L’original a été écrit en tant que la suite pour piano, qui se constitue de six pièces, lors de la première guerre mondiale que Ravel, lui-même, accompagnait l’armée. Et comme il a dédié chacune pièce à ses amis qui étaient morts à la guerre, le contexte « tombeau » surgit. Mais il parait qu’il avait composé cette œuvre comme l’hommage pour la musique française représentée par F. Couperin, puisque « tombeau » signifie aussi le respect aux grands hommes.
 Il y a une version pour l’orchestre, arrangé par le compositeur lui même.

モーリス・ラヴェル(1875〜1937)

 近代フランスを代表する作曲家。19世紀末から20世紀にかけて活動し、管弦楽曲、ピアノ曲、室内楽、歌曲といった作品を残している。殊に「ボレロ」の作曲者、「展覧会の絵」の編曲者として知られている。演奏家としての活動も国内外で精力的に行い、ピアニスト、指揮者として出演した。

 母親の出身地であるバスク地方シブールに生まれ、生後3ヶ月でパリに住み始めた。音楽通の父親は、幼少の頃からあらゆる種類の音楽に惹かれていた息子に対し好意的に接し、6歳頃からアンリ・ギス、シャルル・ルネにピアノを習い始めた。ルネには和声法や対位法、作曲法の教えも受けている。
 1889年よりパリ音楽院に在籍し、ピアノと作曲を学んだ。師としてシャルル・ド・ベリオ、アンドレ・ジェダルジュ、ガブリエル・フォーレがいる。1900年よりローマ賞へ作品を提出し、2回目となる1901年に第2大賞を得ているが、年齢制限という点で最後の挑戦となった1905年には予選での落選となった。この時すでに「亡き王女のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」等を発表していたラヴェルが予選で落選したことは波紋を呼び、パリ音楽院院長辞職にまで発展する事件となった。

 1900年代後半、作曲に対する創造性が極度に高まっていく。「博物誌」、「スペイン狂詩曲」、「夜のガスパール」、「ダフニスとクロエ」といった作品が発表され、西ヨーロッパ、アメリカ、北アフリカで演奏された。作曲者自身による国内及び国外での演奏旅行も頻繁になる一方で、セザール・フランクの没後、ヴァンサン・ダンディが中心的存在となっていた国民音楽協会のラヴェルに対する冷遇は強まり、1909年同協会を退会、ガブリエル・フォーレ、シャルル・ケックランらと共に独立音楽協会を結成する。

 1914年第一次世界大戦勃発、1915年より第十三砲兵連隊にトラック輸送兵として入隊する。1917年母親が他界。この頃から創作意欲は衰え、唯一以前から作曲中であった「クープランの墓」が発表されたのみで、実質的には3年間ほど新作が発表されず、復帰後も年に1、2作というペースとなった。1920年、レジョン=ドヌールのシュヴァリエ章にノミネートされたが受勲を拒否。3ヶ月に亘る騒動の末に、公教育大臣と大統領により授与撤回された。1921年、モンフォール・ラモリに購入した屋敷の大規模な改修が済み、終のすみかとなる。「ル・ベルヴェデール」と名付けられた。

 1920年代は、作曲家としての活動は低調となるものの、演奏家としての活動は盛んであった。1926年には演奏旅行のために訪れていたブリュッセルで、ベルギー国王からレオポール勲章シュヴァリエ章を授与され、1928年には数年間に及ぶ交渉の末、アメリカ、カナダでの4ヶ月に亘る演奏旅行が実現する。同年、パリ・オペラ座でバレエ「ボレロ」が初演される。オックスフォード大学から名誉音楽博士号を授与された。

 1930年、出生地であるシブールにて催された、ラヴェルを讃える祝典に参加する。生家に記念プレートが取り付けられた。1932年パリでの「ピアノ協奏曲」の初演を皮切りに、マルグリット・ロンとのヨーロッパ20都市での演奏旅行へと出かける。ブカレストでは、王から勲章を受けた。演奏旅行後、映画「ドンキホーテ」のために作曲していたが、最終的にジャック・イベールが起用された。曲は「ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ」として発表され、最後の作品となった。同年、パリでタクシーの衝突事故に巻き込まれ、顔に数カ所傷を負い、胸部を打撲したが、大事には至らなかった。1933年「左手のための協奏曲」をパウル・ヴィトゲンシュタインと共に初演。数年前から兆候のあった運動失調症と失語症が悪化。数ヶ月の休養後に開かれた演奏会が最後の出演となった。1937年パリにて死去。生涯を通じ独身であった。

参考資料

  • Arbie Orenstein, Ravel - Man and Musician (New York, Dover Publications, 1991). アービー・オレンシュタイン著、井上さつき訳. 「ラヴェル 生涯と作品」音楽之友社、2006年
  • Marguerite Long, Au piano avec Maurice Ravel, Editions Julliard, 1971 (Pierre Laumonier). 北原道彦、藤村久美子訳.「ラヴェル − 回想のピアノ」音楽之友社、1985年
  • 「作曲家別名曲解説ライブラリー11 ラヴェル」音楽之友社